|
イサカ(Ithaca)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州中部トンプキンス郡にある都市。人口は29,287人(2000年国勢調査)。都市圏では100,135人を数える。同市にはアイビー・リーグ(東海岸の名門8大学)の1つに名を連ねるコーネル大学をはじめ、イサカ大学、ニューヨーク州立大学コートランド校などがキャンパスを構える学術都市として知られている。また、市内や周辺には公園や遊歩道、森林など自然景観の美しい場所も多い。 イサカはフィンガー・レイクス地方(Finger Lakes Region)と呼ばれる、ニューヨーク州の中では田舎とされる地域に位置している。ニューヨーク市からは約400km離れている。最も近くにある州の主要都市はシラキュース市で、車で約1時間ほどである。 なお、「イサカ」という地名はイサカ都市圏の中心となるイサカ市とその周囲を取り囲むイサカ町の両方を指す。この項目においては、主にイサカ市について述べる。 ==歴史== ヨーロッパ人による入植が進められていた頃、イサカ周辺ではネイティブ・アメリカンのサポニー族(Sapony)やチュテロ族(Tutelo)が生活していた。これらの部族は、ヨーロッパ人の入植によってノースカロライナを追われた後、カユガ族(Cayuga)の統治の下にカユガ湖の南畔で生活することを許されていた。やがてヨーロッパ人たちの開拓の手はこの地にもおよび、これら部族のネイティブ・アメリカンたちは土地を追われた。チュテロ族の村は現在イサカ市域の南に隣接する地域、州道13号線・13A号線が交わるあたりに存在していた。なお、現在のイサカ市域におけるネイティブ・アメリカンの生活範囲はカスカディラ渓谷(Cascadilla Gorge)での狩猟基地などに限られていた。1789年にこの地におけるカユガ族の統治は終わり、ヨーロッパ人の入植が進められていった。翌1790年には、中部ニューヨーク・ミリタリー・トラクト(Central New York Military Tract)という入植計画の下、独立戦争に参加した兵士への褒美として土地が与えられていった。その後1年以内にほとんどの土地はこうした形で与えられ、非公式ではあったがこの地への入植が始まった。 こうした入植の過程において、この地はサイモン・デウィット(Simeon DeWitt)による調査が進められていた。デウィットの秘書を務めていたロバート・ハーパー(Robert Harpur)が古代ギリシア・ローマの歴史やイギリスの小説家・哲学者に強い関心を寄せていたため、この計画の下でつくられたタウンシップには古代ギリシア・ローマの名前や、イギリスの文学者にちなんだ名前が多くつけられた。のちにイサカとなるこの地のタウンシップは、オデュッセウスのラテン名ウリュッセウス(Ulysseus)にちなんでユリシーズ(Ulysses)と名付けられた。その数年後にデウィットがイサカに移住すると、町そのものにもユリシーズという名をつけた。なお、このユリシーズという名はイサカが属しているトンプキンス郡の町の名として現在も残っている。しかし一般的な言い伝えとは異なり、シラキュースなどニューヨーク州内陸部の都市名の多くはデウィットによって名付けられたものではない。こうした地名の由来から、イサカとその周辺の小学校ではオデュッセイアがよく教材とされている。 1820年代から30年代にかけては、イサカに鉄道が開通し、エリー運河を通じてサスケハナ川へと至る交通路が確立され、イサカの経済成長が期待された。このとき開通したイサカ・アンド・オウェゴ鉄道(Ithaca and Owego Railway)は1837年に再編され、カユガ・アンド・サスケハナ鉄道(Cayuga & Susquehanna)となった。なお、現在ではこの鉄道の跡地はサウス・ヒル・レクリエーション・ウェイ(South Hill Recreation Way)となっている。しかし、1854年にシラキュース・ビンガムトン・アンド・ニューヨーク鉄道(Syracuse, Binghamton & New York)が開通するなど、州内陸部には次第により使いやすい交通路が確立されていった。一方、イサカはその地形が災いして迂回されるようになった。1850年代に開通したデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道や、1890年にペンシルベニアとバッファローを結ぶ鉄道として開通したリーハイ・バレー鉄道はその例である。 実業家エズラ・コーネル(Ezra Cornell)は、この地域の発展に多大な貢献をもたらした。南北戦争直後の10年には、コーネルによる資金援助の下で周辺への鉄道路線が整備された。名門コーネル大学は、1865年にコーネルによって開学された。同校は創立当初より男女共学という、当時としては画期的な大学であった。また、コーネルは市の図書館も開館した。1892年には、イサカ音楽院(Ithaca Conservatory of Music)としてイサカ大学が開学した。 イサカは1888年に市となり、小規模工業や小売業の中心地として、そして教育都市として発展を続けた。高品質なショットガンを生産するイサカ・ガン・カンパニー社(Ithaca Gun Company)や、イサカ・カレンダー・クロックス社(Ithaca Calendar Clocks)は全米にイサカの名を知らしめた。この地域最大の企業はモース・チェーン社(Morse Chain)であった。同社は現在でもボーグワーナー・モース社(BorgWarner Morse)として存続しており、イサカ市北郊のランシング(Lansing)に本社を置いている。NCR社やゼネラル・エレクトリック社のラングムール研究所もイサカの主要な雇用主であった。 20世紀初頭には、イサカはサイレント映画産業の重要な拠点であった。イサカとその周辺では、その自然環境を活かした映画が数多く撮影された。こうしたサイレント映画の多くはレオポルド(Leopold)・セオドア(Theodore)のワートン(Wharton)兄弟によって制作された。彼らが制作に携わったスタジオは、現在スチュワート・パーク(Stewart Park)という公園になっているところにあった。やがて映画産業の中心はハリウッドへと移り、イサカでの映画制作は行われなくなっていった。イサカで制作されたサイレント映画は、現在ではほとんど残っていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イサカ (ニューヨーク州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|